授業書に関わる話題あれこれ

その1 ミニ授業書《鹿児島と明治維新》
 

 2018年秋の街角かがく倶楽部での授業はミニ授業書《鹿児島と明治維新》にしました。
 このミニ授業書は,鹿児島市の観光案内的なことをしながら,明治維新についていろいろ明らかにしていく授業書です。その後半にこんな問題があります。

〔問題9〕
 明治維新後,新政府は日本を統一国家として近代化させる方針をとりました。そのためには古い藩意識は障害になります。江戸時代の藩は独立国家のような性格をもっていましたが,その藩よりも新しい「日本」という国家を中心に考えていく人々を育成することが必要になったのです。
 それでは,新政府のもとで設けられた新しい県庁の役人は,江戸時代にその地域を支配した旧藩士とは無関係に全国的に大きく入れ換えられたのでしょうか。
 西南戦争の前の年,明治9年の時点ではどうだったと思いますか。

予想
ア.全国的に入れ替えが実現した。
イ.大きな藩では必ずしも実現しなかった。
①とくに明治維新のとき,幕府側に
  ついた藩での抵抗が強かった。
②とくに明治維新を推進した鹿児島・
山口などでの抵抗が強かった。
ウ.その他

 あなたは,どう思いますか?
 もしも,ご存じなかったら予想してみてください。

廃藩置県が行われたのは,1871年のことでした。その前,1869年に「版籍奉還」というできごとがあり,江戸時代に各地を収めていた大名が「領地を天皇に返す」 ということが行われました。しかし,その時には大名がそのまま今の県知事の役についた形だったのです。廃藩置県では,大名はすべて東京に集められ,華族になりました。そして,各県には中央から県知事(最初は県令と言った)を派遣したのです。
     註:


 



 授業書にはこの結果は次のように書かれています。

              明治の新政府と旧藩閥

 ここに,西南戦争の少し前の明治9年4月現在の各県の官員録があります。この官員録には出身地が書きこまれでいるので「その県の県令(県知事)以下の役人が同じ藩の出身者で占められていたかどうか」が分かります。

 そこで この官員録で,とくに江戸時代にはほとんど全域を一つの藩で占めていた県-石川県・広島県・鹿児島県・熊本県・山口県・和歌山県・徳島(名東)県・高知県の8県の県庁の役人の出身地を調べると,

(1) 県令が同じ県の出身者なのは,鹿児島・高知の2県だけで
(2) 県令を含む上位3人を見ると,鹿児島は3人とも同県出身,高知と山口は3人中2人が同県出身者,広島は第2位の参事だけが同県出身,
(3) あとの4県は上位3人とも他県出身です。

 これを見ると,いわゆる「薩長土肥」の藩閥の確立していたところを除いて,明治政府は県庁の役人をその出身藩と切り離すのに成功したといえます。比較的に低い地位の役人の場合は,地元出身者を採用するのが自然なので 県の役人全体だと,他県出身者の割合は,

石川県は96人中24人(25%),
広島県は80人中25人(31%),
熊本県は103人中46人(45%),
名東(徳島)県は85人中38人(45%),
和歌山県は65人中36人(55%)
となっています。

 しかし,
 鹿児島県の場合は100人の県役人のうち他県出身者は3人だけしかいません。また 山口県の場合は,県令に他県出身者をあてたものの,94人の役人中他県出身者はわずか8人,高知県の場合は88人中15人が他県出身者です。明治維新のとき官軍の指導権をにぎったところは,それ以外のところとは・はっきりちがって,江戸時代の態勢がそのまま引き継がれているのです(肥前の佐賀県の場合は明治9年にはすでに〈佐賀の乱〉が鎮圧させられているせいか,上位3役の全員が他県出身者であるのみならず,全部で69人の県役人のうち他県出身者が42人で61%を占めています)。

 長い文章ですが,結局は「県庁の役人(特にトップ)が,一般の県では他県出身者であることが多いが,鹿児島や山口は同県出身者が多い」ということで,正解をイ②と言っているのです。

 しかし,鹿児島・山口というのは明治維新を推進した県です。つまり,明治維新後しばらくの中央の役人は鹿児島・山口出身者が多いのです。だとしたら,中央から派遣された県のトップが鹿児島・山口出身者であることは,別段おかしなことではないのではないか。それをもって,「抵抗があった」と言えるのだろうか?
 というのが,刈谷の講座でこの授業書を受けた娘(竹田かずき)の疑問でした。私はそれを聞いて「なるほど」と思いました。

(こういう疑問は娘が抱くだけではないようです。実際に街角かがく倶楽部で授業した時に,同じようなことを言った人がいました)
 こんな出来事があった後,私が調べて,問題形式にしてみたのが以下のようなものです。
 もしもよろしかったら,お付き合いください。


① 現在県知事は県民による選挙で選ばれます。
 しかし,明治の初め,県知事は政府から任命されました。それでは,県知事が県民の選挙で選ばれるようになったのはいつからだったと思いますか。

予想
   ア 大日本帝国憲法が制定されてから。
     (1890年頃)
   イ 普通選挙法が施行されてから
     (1925年ごろ・大正時代)
   ウ 敗戦後
     (1945年後)
   エ その他






  結果は、


 県知事を住民の選挙によって選ぶようになったのは,1947年からです。(結果はウ)

 
② 愛知県の場合,戦前の知事(つまり選挙で選ばれたのではなく任命された知事)は39人います。

この知事のうち,愛知県出身者はどのくらいいるでしょう?

予想
ア 8割以上 (30人以上)
イ 半分ぐらい(20人前後)
ウ 2割以下  (10人以下)



  結果は

     1872年から1947年の愛知県知事の出身地



愛知県出身の人は0でした。


③ では,ほかの県ではどうでしょう?
 ウキペディアで調べたところ,47都道府県のうち,歴代県知事の出身地が分かったのは27都府県だけです。
 この27都府県ではどうでしょう?

 愛知のように,地元出身の県知事の割合が1割以下のところが多いのでしょうか?
 それとも,愛知が特殊なのでしょうか?

予想

ア ほとんどの都府県が愛知と同じ。
  (地元出身の知事はどこでもほとんどいない)
イ ほとんどの都府県が愛知と同じではない。
  (愛知のような県はほんの少し)
ウ いろいろな都府県があって一つの傾向はない。
エ その他

  結果は、

   1872年~1947年の地元出身の知事の人数
        47都道府県のうち判明した27都府県


 街角かがく倶楽部の授業では,「明治の新政府と旧藩閥」のお話を読んだ後,この一連の問題を「おまけの問題」としてやりました。

 私は,授業書の「明治の新政府と旧藩閥」というお話を分かりやすくするために,文章で書いてあることを下のような図にして示していました。


 おまけの問題をやってから,もう一度この図を見ると,この資料の最初に紹介した授業書の[問題9]の答えが改めて納得できるような気がしたのですが,いかがでしょうか。