あとがき
              
 今回,この本をまとめてみて「へ~,私ってこんなことやってたのかあ」と驚きました。自分のことですから覚えていることはたくさんあるはずなのですが,しかしそれらを俯瞰して眺めることはなかったため,新鮮な感じがしたのです。「グラフをたくさん描いているんだなあ」とか「そういえばこの研究はいったん棚に上げたまま,気になりつつも進めてなかったなあ」など,今一度,自分の歩んできた道を振り返るいい機会になりました。

 まえがきにも書いた通り,私はつい数年前まで,自分自身が研究することを想像したこともありませんでした。「思えば遠くへ来たものだ」という気もしますが,しかし,根っこは変わっていないような気もします。自分で調べ出す前から,世界のことを見回したり,新しい発見を教えてもらうことは好きでした。以前は「誰かの研究成果をたのしみにする」という立場だったのが,今は自力で新しい世界を見回そうとしているだけなのでしょう。
 
 自分で調べるようになって,研究の厳しさを知ることもありました。「本当に〈確か〉と言えるのか」「聞いてくれる人に知らずにウソや,誤解させることを言っていないか」ということを意識して取り組んでいると,なかなか発表にたどり着けないこともありました。しかし,それはいいことでもありました。厳しい目で見てくれる人がいるからこそ,「その人をも納得してもらえる研究を重ねなければ」と思うようになったのです。自分だけが「なるほど,わかったぞ」と思うことを目指すのならば,詳しく書いてある本を読んで,おしまいにすればいいこともあります。しかし,そういう「自分以外の厳しい人」がいるからこそ,「この本に書いてあるけど,本当だろうか?」「違う立場の人が書いた本にはどう書いてあるだろうか?」といろいろな視点から調べるようになったのです。そうして調べだしたからこそ,見つかった〈発見〉もたくさんありました。

 逆に,〈詳細な本であっても「結局,どういうことが言えるのか」「まとめるとどうなるのか」ということをはっきり述べていない本がいくつもある〉ということにも気づきました。歴史のことなどは,自然科学の法則ほど明瞭に結論づけられないせいもあるかもしれませんが,「もっとわかりやすくまとめてほしい」と思えるのです。そう思って板倉さんの本を読み返すと,そのわかりやすさに驚きます。科学者の話にしても「この人が生きた頃はどんな時代であったか」ということが平易な言葉で綴られています。

 板倉さんはたびたび「私は大衆の御用学者だ」と言いますが,そのような「大衆にわかるよう,丁寧に簡潔にまとめる」という文章にその一端を感じ,感激することもしばしばです。

 私自身は,研究しているとはいえ「大衆の御用学者・研究者」というより,「大衆そのもの」だと思っています。〈大衆としての自分自身〉の素朴な「わからない。知りたい」と思う気持ちをもって,今まで続けてきたつもりです。そして,これからもそうやって研究を続けていきたいと思っています。
                                    2010 年12月20日 竹田かずき