まえがきにかえて
    このガリ本ができるまで
                                               竹田美紀子
 
 2009年の1月、冬休みが終わったころ、急遽小さな会が持たれる計画ができました。私がもう退職であるということで行われることになった授業公開の会です。そして、その会に合わせて、このガリ本を作ることにしました。私自身退職に合わせて、何らかのガリ本を作る気持ちはずいぶん前からあったのですが、なかなか構想がまとまりませんでした。しかし、この会が行われることになって、計画的に3冊のガリ本を作ろうという気持ちが固まりました。そこで、この小さな会が持たれることになった事情、そして、このガリ本を作ることになるまでの事情を書きのこしておきたいと思います。
 くどくどと細かい事情を書いてもただただ冗長なだけでしょうもないかもしれないのですが、でも、〈どのようにして人は動くか〉ということの一つの例のような気もするのです。

●最初の計画
 話は1年前にさかのぼります。2008年の板倉先生宛ての年賀状に伊藤穂澄さんは「今年は竹田さんが退職なので、退職の会を開きたいと思います」というようなことを書いたそうです。そうしたらなぜか冬の大会のとき板倉先生から声がかかりました。「やるのだったら、来てくれた人に喜んでもらえるような会にしなさい。そしたら、僕も行きますから」と。びっくり!!びっくり!!びっくり!!!ということで、どういう会を開くことにするか、穂澄さんと私は2人で相談を始めました。
 最初に思ったのが、木曽岬小のような会を開くこと。「簡単にできることではない」とは思ったものの、「退職だからということで私の学校で開くことはできないか」と、相談を持ちかけましたが、だめ。次に「穂澄さんの学校でできないか」と持ちかけたけど、それもだめ。暗礁に乗り上げてしまいました。
 その次に考えたのが、〈今までない会〉ということで「もうすぐ授業書発表会」。まだ授業書にはなっていないけど、近い将来授業書として完成しそうなものをみんなで体験する会でした。そして、そういう会の中に〈退職記念のことも組み入れる〉という考えでした。ところが、それに向けて日にちの調整をしようとしていたところに入ってきたのが、秋の大会の計画。その内容の主旨は私が考えたものと重なるところが多々あって、びっくりでした。だから結局私の考えたものは引き下げることにしました。
 いろいろ、何度もああだこうだと考えていたのですが、こんな具合で2学期のころにはもうあきらめムード。その後新たなことを考えることもないまま、12月を迎えました。
 12月20日には、春休みに行う刈谷の会のための準備会がありました。まだまだ構想の段階だったのですが、主催者の伊藤正道さんは1日目の夜に私のための講演会を予定していてくれました。ありがたい話です。それを知った穂澄さんは「よかった!よかった!刈谷の会でそういうことができるのなら、それに勝るものはない」という感じでした。だから、私の退職記念は、それ・・・・だけのはずでした。
 
●冬の大会で
 2009年の冬の大会2日目の午後のことでした。前の晩遅くまで起きていたせいで眠くなってきてしまった私と穂澄さんと澤田さんはコーヒーを飲みに行きました。そこでいろいろ話しているうちに持ち上がったのが、「やっぱり竹田の最後の授業を見る機会はないか」ということでした。穂澄さんは前から、うちのクラスで皆と一緒に仮説実験授業を受けている障害児に注目していて、「それを見てみたい」ということを言っていたのです。
「3学期の授業参観はいつあるの?そこで保護者にまぎれこむっていうのはどう?」と言われたのですが、3学期に授業参観は1回だけ。でもその時はその後学級懇談会があったり、字別懇談会があったりして、どうもそういうのにはふさわしくない・・・・ということで、結局〈ほんとに授業を見るだけの小さな会〉を開いたらどうか、ということになりました。日にちも調整し「新学期が始まったら校長さんに聞いてみよう」ということで、その場は終わりました。
その後の夕食。ほとんどお向かいの位置に板倉先生が座りました。穂澄さんは2009年の年賀状には「できなくてすみません」と書いたそうです。それをうけてかどうか、」お向かいに座った板倉先生から「退職記念の会というのは別に3月までに開かなくてもいい。新しいところで2カ月くらいたってから開くという手もある」というお話があったのです。そんな会を開けば、たぶん来ていただけるということなんでしょう。嬉しい話です。「そういう会ができるようにしたい」と思いました。

● やらずに後悔するよりやって後悔しよう
 しかし、6月にそういう会を行うということは、刈谷の会で講演があって、さらにそれがあるわけですから、私は、その2回に加えて「授業を見る会」まで行うのはちょっとくどくなるのではないか・・・と授業を見る会に対して躊躇し始めてしまいました。せっかく来ていただいても、私は別に普通の授業しかしていないので、「特に学ぶようなこともないと思う」ということもありました。そんなことをメールで穂澄さんに送ると、穂澄さんは、

2月の会ですが、やっぱりわたしは授業を見たいのですが・・
そんなに大規模でなくてもいいけど、身近な人は見たいと思うけどなあ・・。
6月はもう別の会にしてもいいなあとは思うけど・・
だって多分退職という感じではないと思いますよ。
3月だってそんなに大きく書いてなし(笑)
竹田さんのやってきたことなら、3回でも5回でもくどくないと思うけど。無理にとは言いませんが、今度の西サークルでも聞いてみてください。
と言います。
 それでも、私はこれだけでは動けませんでした。でも、前から「授業を見る会があるのなら、私も行きたい」と言っていた娘に相談。そうすると娘からこんな返事が返ってきました。

うーん,それぞれのコンセプトが違うなら,まあいいんじゃない?
そう深く考える人はいないと思うよ。
特に授業参観は,他のことに比べて,次があるかわからないことだから,「やらずに後悔するより…」だと思う。
 「やらずに後悔するより、やって後悔しよう」というのは、仮説実験授業に出会う前から私が自分の座右の銘にしてきた言葉です。それを、娘に言われて、やっと決心しました。「やろう!」と。だって、ほんとに「やらずに後悔するよりやって後悔しよう」だと思いますもの。

●ガリ本を作る
 そんなことがあって、やっと私は動きだします。そして、校長さんにそんな会を開くことについて持ちかけてみたら、あっけなくOKが出ました。だから、それを穂澄さんに連絡したのですが、それからの穂澄さんの行動の速いこと速いこと。
 瞬く間にパンフが出来上がり、『たのしい授業』2月号に載せる手配が出来上がり、各種メーリングリストでの宣伝。だからといって遠くからそんなに人が来ることもないでしょうし、たくさん人が来ることもないでしょうが、そういう動きそのものが嬉しい限りでした。
 そして思ったのです。「せっかく来てくれた人に少しでもお礼がしたい」と。
 そして作ることにしたのがこのガリ本です。他にも授業ノートとか、できるプレゼントはするつもりだけど、その日のために作った本を用意することで気持ちを表したいと思ったのです。せっかく来てもらって、参加費までとるのに、お土産なしでは申し訳ないですから。
 そして、刈谷の会と、まだわからない6月の会にもガリ本を作りたいと思いました。それなりに趣旨をずらして3部作を作ろうというわけです。第1冊目であるこの冊子には、息子と娘にも文章を寄せてもらい、どちらかというと「働く母」とか「生き方について考える」みたいなことに焦点を当てた感じのものにしました。3月の刈谷の会には、教師としての側面に焦点を当てたものを作りたいなあと思っています。 
・・・という、そんなわけで、このガリ本ができました。
手に取っていただけて、本当にありがとうございます。
                   2009年2月13日


も く じ

まえがきにかえて―このガリ本ができるまで― 竹田美紀子…… 3

           表紙について    竹田かずき……10


私の出発記念に―竹田美紀子自伝―  …………… 11

竹田美紀子年図 …………………………………………… 32


母の子育て         竹田 正和(長男)…… 33   

お母さんへ          竹田かずき(長女)…… 43


教育研究業績書 …………………………………………… 50
    愛知教育大学大学院受験の際に大学に提出したもの
    実物は手書きでしたが、打ち直しました。

なぜか私よりカシコイ子どもたち(1979年6月) …… 54
    私のデビュー作です。『授業科学研究』に載ったものの
最初の部分だけを載せました。

私の仮説実験授業宣言(1987年3月) ………………… 69
    『たのしい授業』に載ったもの。私の一つの出発点です。

父が残してくれたこと(1990年9月) ………………… 85
    父は私にとって大きな存在だったと思います。

高校生になった息子へ(1992年4月) ………………… 88
中3の娘へ(1993年6月) ……………………………… 90

お母さん先生としての原点(1977年・復刻1994年)… 92
    手書きの古い資料を1994年に打ち直しました。

普通の人の仮説実験授業(2000年)……………………… 97
    何ということのない文章なんですが、残しておきたくて
     入れることにしました。仮説実験授業は〈特別な教師〉を
目指しているのではないと思います。

たのしく学び楽しく生きるために(2003年5月) …… 102
    『たのしい授業』(2007年10月号)に載せてもらったものです。
      障害児学級の担任だった時に書いたものです。

決め手はたぶん意欲と教材の力(2007年7月) …………125
    担任した障害児と4年後に協力学級の担任として再会
しました。その1学期に書いた資料です。

退職したら女子大生(2009年1月)………………………141
    『たのしい授業』に載せてもらったものです。

あとがき            伊藤 穂澄 ……… 148


表紙について(竹田かずき)

 今回は,「空」と「ホップステップジャンプ」をコンセプトに表紙デザインをしました。(ガリ本タイトルである「私の歩いてきた道」なのに,「空」はちょっと不釣り合いかもしれませんが…)
 私は,ゴスペラーズという歌手が好きなのですが,その中で,特に好きな曲の1つに『星屑の街』というのがあります。その歌詞は「あの日見上げた星空より高く 夢で想うより遥か遠く」というものです。
 (これは,私の話ですが……)私はいま,とても楽しく日々過ごしています。しかし,それは決して,〈子どものころの夢〉ではありません。〈大学時代の夢〉とも,少し違います。でも,それは「夢破れ」ではなく,「その夢よりも遠く」と思ってます。そして「そんなに素敵なことはない。夢が叶うよりもっと素敵だ」とも思っています。
 母,竹田美紀子の〈これまで〉や〈これから〉が,そんなものかはわかりません。でも,(「そうじゃなきゃダメ」ってことではないけど)そうであるのではないか……とも思って,「雲の向こうの空」を描きました。
 あと,その雲を「ホップステップジャンプ」の動きに見立てて,母の言う「たとえ少しずつでも伸びていきたい」という象徴にもしました。