まえがきにかえて

       授業書のねらいと仮説実験授業のねらい
                                              
                                                 竹田 美紀子

 この授業ノートは、2008年の夏にあった刈谷での「たのしい授業フェスティバル」をきっかけに作りました。《溶解》の講座を担当することになったので、講座の参加者に配れるように授業ノートを完成させようということになったのです。ところが、いろいろ事情があってそれに間に合わせることはできませんでした。でも、そのおかげで講座に参加してくださった方からの質問に関することや、講座をやってみて気づいたことなども入れることができました。本当に「どっちに転んでしめた」です。
 そして、このまえがきも、この夏の終わりだったから書くことができたまえがきです。
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この夏の終わり、私はかつてないほど「仮説実験授業のねらい」について考えていました。それは仮説実験授業は科学だけれど、その仮説実験授業を科学的でなく行うこともできるということに気づいたからです。以下は未完の文ですが、そのことに気づいた時に書いた文章です。ちょっと長くて申し訳ないのですが、よろしかったらお読みください。

 仮説実験授業は時々新興宗教と間違えられることがあるらしい。私も笑いながら、新興宗教になぞって冗談を言い合ったこともある。「でも、やっぱり根本的に違うよね。だって、仮説実験授業は科学だもの」という言葉を最後に付け足しながら。
 仮説実験授業は、科学を対象にしていて、その研究も科学的だ。
 しかし、だからといって、新興宗教になってしまう心配は本当にないのだろうか。
 科学には実験がある。実験的に明らかにされていないことはすべて仮説として考え、そこではどんな考えも同等だけど、実験的に明らかになったら、それに反することは認めない。そうやって真理を見つけてきた。
 しかし、実験的に明らかになっていないことを「誰かがそう言うから」ということで真理として扱ったら、それは扱っているものがなんであろうと、新興宗教と同じことになってしまうではないだろうか。
 さらに、科学は実験的決着を見るまではどんな考えも仮説として尊重するのだから、自分と違う意見も一つの仮説としてその存在を認めます。
 ということは、実験的な決着がわかっていないのに、違う考えを認めなかったら、それもやっぱり扱っているものがなんであろうと、科学とは言えないのではないでしょうか。
 一途に、盲目的に信じることは、むしろ科学とは正反対なものだと言ってもいいような気さえします。

 そんなことを考えていたら、「もしかして、私も昔は盲目的に仮説実験授業を信じていたのかもしれない」と思えてきました。なぜかというと私は昔自分の原理の一つとして「仮説実験授業は素晴らしい」ということをあげていたからです。
 確かに今でも仮説実験授業は素晴らしいと思うし、それは実験的事実だと思います。でも、それを「原理にして考える」ということは「もしかしたら、それにもどこか悪いところがあるかもしれない」という仮説を1%も認めないということになるわけで、それは「盲目的に」というのに等しいわけです。
 仮説実験授業は、扱っている内容も、その研究も科学。でも、そうであっても、科学とは正反対の態度で、盲目的に仮説実験授業を行うことができる。そういうことに私は長い間気づきませんでした。そして、思い出してみると私もそんな風に仮説実験授業をやっていた時期がずいぶんありました。でも、その時にはそんなことを全く思ってもみませんでした。それを考えると、こんなに遅くなってからだけど、気づけただけでも良かったと思います。

 盲目的に仮説実験授業を行っても、いい授業はできるのでしょう。授業書があるし、授業運営法があるし、盲目的な信頼はもしかしたら普通以上にいい授業を実現させてしまうかもしれません。だから、もしかしたら、教師としては何の問題もないのかもしれません。そして、そういう教師が教えていても、仮説実験授業を受けた子供たちは、科学的認識を獲得していくのかもしれません。

 こんな風に考えたのですが、この先が続きませんでした。なぜ今の自分は盲目的に仮説実験授業をやりたくないのか。盲目的に仮説実験授業を行うとどんな良くないことがあると思うのか。考えても全然わからなかったからです。
 でも、今やっとなんとか整理がついたような気がしています。簡単に言ってしまうと、私が盲目的に仮説実験授業をやりたくないのは、仮説実験授業そのものの作られた由来によるもののような気がするのです。
 仮説実験授業は科学の授業です。でも、それを通じての究極のねらいは、「だまされない人間」「主体的に生きる人間」を育てることだと思います。個々の授業書のねらいはそれぞれあるけど、それを通じて「仮説実験的に生きる人間」を作ることが秘かなねらいであるといってもいいのではないでしょうか。
 仮説実験的な生き方というのはどういう生き方でしょうか。一つにはそれは、自分が正しいと思ったことでも、それは一つの仮説にすぎないことを意識し、自分とは違う意見も一つの仮説として尊重し、実験的決着がつくまでは、自分の仮説を大事にするけど、決着がついた時には、その実験結果を尊重する…そういうような生き方ではないかと思います。また、一つには何かの行動を起こしたり、判断したりするときには、自分にとって都合のよい選択肢だけでなく、一番都合の悪い選択肢までも考え、どの選択肢を選ぶかを自分で決めて、行動したり判断するようなことでもあると思います。また、一つにはどんなに権威のある人の言葉でも、実験的に明らかになっていないことは一つの仮説として考え、ほかの仮説の可能性をも考えに入れつつ、実験できることは実験していくことでもあると思います。そして、どんなときでも主体は自分なのであって、自分の責任において選択肢を選び、自分の責任で持って実験したり、実験を見つめたりするものではないかと思います。
 しかし、仮説実験授業は100%それを保証するわけではありません。授業書のねらいもそうだけど、仮説実験授業のねらいだって8割主義。「盲目的に仮説実験授業を行う人」が2割ぐらい出てしまうのは、あたりまえなのでしょう。もしも仮説実験授業の素晴らしい実践者が、仮説実験的に生きていなかったとしても、愕然とする必要はないのかもしれません。
 でも、私は少しでも仮説実験的に生きていけるようになりたいし、ほかの人に対しても、子供たちに対しても、「そうなってくれるといいなあ」と思います。そのためにできる唯一の手段は仮説実験授業の実践しかないと思います。(といって、100%実現はできないけど)だから、授業書のねらいが達成できるよう仮説実験授業を実践していきたいと思います。

この授業書のねらいは、
 食塩や砂糖が水に溶けると見えなくなってしまいます。しかし、「溶けた食塩や砂糖は、目には見えなくなったが、水の中で目に見えないほど小さな小さな粒となって存在しているに違いない」という考え方が近代科学の「物質不滅の法則―原子分子論的な考え方」です。この授業書の第一のねらいは、このような「原子論的な考え」を教えることにあります。また、「物質の性質はさまざまで、簡単には予想できないような多様性」があるということを知らせるのも、この授業書のねらいの一つになっています。

と書かれています。でも、「この授業のねらいはこうだから」と堅苦しく考えなくても、授業書に沿って授業していけば、このねらいが達成されてしまうのが、仮説実験授業の素晴らしいところでもあると思います。
 この授業ノートが、そのための手助けに少しでもなってくれたら嬉しいです。                     
 この授業ノートは主に以下の3冊を見ながら書かせていただきました。ありがとうございました。

○授業書との付き合い方 溶解   林泰樹
○仮説実験授業〈溶解〉覚え書き  榎本昭次
○「溶解」ミニ授業ノート     佐々木邦道
                                               2008.8.31